「看板を背負う」ということ

中高生の頃に
「君たちは○○校の看板を背負ってるのであるから」
などと言われてもよくわからないというか、
「そんなもん背負ってないし俺は俺だ」
みたいなことを言いたい時期だから
あまり響かないんじゃないかという気がする。

でも大人になってみると、
好むと好まざるとにかかわらず
誰もがいろんな看板を背負っていることがわかってくる。

「俺は俺だ」の人は
「だから俺個人としてのみ判断してもらいたい」んだけど
残念ながら世の中のほとんどの人は「俺」の人のことを知らない。

ただ、たとえば学校の制服を着ていると
地元の人ならどこに所属しているかはわかるだろうし
他に情報がなければ「の中の一人」としてしか判断できない。

結果「俺」の言動は
「その集団に属する誰かの言動」にしかならないし
サンプル数が十分にない場合は
それがそのままその集団とそれに属する個人への評価にもつながり得る。

「自分の責任は自分で取るぜ」と叫ぶのも自由だけど、
自分以外の人が何をどう思うかにまで踏み込むことはできないし
それによって他のメンバーが不利益を被るのだとしたら
いくら「俺」が漢でも
そこのところまで責任を取ることはできないんじゃないだろうか。

もちろん全ての個人が
その属する集団によってではなく
本人の資質によってのみ判断されるのが好ましいし、
本人の努力ではどうしようもない部分において判断され
それによって不当な扱いを受けるというのは
あってはならないことだと思う。

ただ、人間の理性が完璧でない以上、
自分の言動によって他者にまで何らかの不利益が及ぶ可能性がある場合
それを避けるべく最大限の努力をするというのもまた
必要なことなんじゃないだろうか。

もちろん自分のやったことで他人がどうなろうが
痛くも痒くもないという人がいるのだとしたら
その場合はそこで話は終了だけど。

これは制服の着用を求められる集団に属する人だけの話じゃなくて
「ブログをやってる人」だったり「インターネットの人」だったり
「スポーツカーに乗ってる人」だったり「日本人」だったり
もうありとあらゆるグループに当てはまることだと思う。

自主的にその集団に所属しているのではなくても
どうやったって自分の言動は「の人」の言動とみなされるし
自分がつまらないことをやれば
それが正当か不当かはともかくとして
「の人」全員がそれに基づいて評価されてしまう可能性がある。

「看板を背負う」というのはそういう意味なんじゃないかな。

などということを、
先日自転車に乗っていて
社名も登録番号も書かれた運送会社の車に当て逃げされてから
ぼんやりと思っている。

なお、心優しい方が心配してくださるかもしれないので
一応書いておきますけど
ケガや破損などは一切ありませんでしたし
その後はしかるべき措置を講じました。

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One Response to “「看板を背負う」ということ”

  • かげさん

    2011/11/05 00:30

    まさに最初から最後まで、自分が感じていることそのものです。
    「新聞記者はまともに取材しない」「自転車乗りはマナーが悪い」「オープンカーに乗るヤツは変なヤツ」等々、言われることがあるので、自分がその0.00何%かでも改善するよう行動しなければ、とは思っています。
    なかなか難しいんですけどね。