『ウェブ人間論』の次の世代

ウェブとの関係において人を世代で分けるとすると、
「1975年世代」である平野啓一郎氏も
実は梅田望夫氏の側の世代なのではないかという気がする。

ウェブ人間論

ウェブ人間論

梅田 望夫
平野 啓一郎

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梅田氏が1975年に注目する理由として

p. 191

 それから、インターネットの普及が一年遅れで日本にやってきた。一九九五年のことですね。そのとき、一九七五年生まれの人は、皆、一九歳か二十歳なんですね。これに数年の差があるともう感覚が違っていて、当時二十三歳だった世代というのは、新入社員として古い文化の会社にどっぷり浸かって忙しくて、ネットに触れる環境になかった場合が多い。

というのが挙げられている。
つまり「インターネットの普及がやってきたときに大学生だったかどうか」
というわけだ。

しかしネットが「やってきた」ものであるという点で
すでにこの世代は「前の世代」に入るのではないだろうか。

個人的には、大きな分かれ目になるのはもう10年後の
1985年生まれあたりではないかと思っている。

普及率の数値がどうなっているかは知らないが、
以前は学校で働いていたからそのときの感覚で言うと
ちょうどこのあたりの世代が高校に入ったあたりから
携帯の普及が「持ってない人は珍しい」レベルになった。
その時点ではもう「携帯電話」ではなくて「携帯」だ。

当然のように携帯でeメールのやりとりが行われていて、
もはやこのツールは日常的な人間関係の一部になっていた。

そして彼らは大学生になり、
それと何ら変わらない感覚でSNSに参加している。

1985年世代にとって
ネットは「やってきた」ものではなく「あった」ものだ。

この「ネットが来た世代」と「ネットがあった世代」では
人間関係とウェブの関わり方が全く違う。

「ネットが来た世代」にとっては
人間関係が先にあり、ネットはその後でやってきたものだった。

ところが「ネットがあった世代」が高校生になり
同じ環境を選んで集まったやつらと関わるようになったとき、
ノートがあって自転車があってコンビニがあったのと同じように
ネットは既にそこにあった。

ここで注目したいのは、同書の中でも何度も使われる
「ネット」と「リアル」という概念だ。

『ウェブ進化論』以後
1985年世代と何度かこのへんの話をしたことがあるのだが、
この「ネット」と「リアル」という感覚が
彼らには今ひとつスムーズに通用しないことがある。

しかし考えてみればそりゃそうだ。
彼らにとって、我々の言う「リアル」の関係は
すでにネットの存在を前提としてできあがっているのだから。

少なくともいま自分と関わりを持つ人で見た場合、
彼らのほとんどは実名でmixiに参加している。
それはクラスメートに自分の名前を告げるのと同じことだから。

携帯メールで恋人に送る顔文字も
ドライブをしながら友人と交わす会話も
SNSで綴る日記の言葉も
全部ひっくるめて一人の自分になる。

ウェブ上の自分は、「分身」ではなく自分そのものだ。

ちなみに我が身について言えば
平野氏とひとつ違いで「ネットが来た世代」。

「古い世代かあ」と思うとちょっと寂しいが、
同時に楽しみでならないこともある。

もはや「ネット」と「リアル」の区別すら薄くなっている
「ネットがあった世代」が
これからどんな面白い世界を作っていくのか。

「本当の大変化はこれから始まる」というのは
そういう意味ではないだろうか。

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2 Responses to “『ウェブ人間論』の次の世代”

  • 2006/12/23 22:28

    本当にその通りだと思います。
    僕も似たようなことを考えていて、
    これから5年の間に、今までとは違った
    新しい流れが生まれるんじゃないかなと考えています。
    既に兆しはでてきていると思うし、
    どんな変化が起きるのか楽しみなのですが、
    それについて行けるかどうかが
    問題だなあと心配もしています。
    昔の価値観とこれからの価値観を
    結び付けていくこと。
    それが、僕たちの世代にできることなのかなと
    漠然と考えています。

  • 2006/12/26 09:40

    > ヌフムヨさん
    インフラやOSやデザインの進歩によりかつては難しいと考えられていたものが確実に多くの人にとっての日常になっていることを考えると、これから起きる変化は必死でついていかないといけないものではなく、むしろ逆の流れではないかという気もします。いずれにしても、何らかの幸福をもたらすものであってほしいですね。