「別の目」という表現について

プログラムを書くなどしていて、思い通りに動かないことがある。

言語自体やフレームワークの設計に不具合がある場合もあるけど
自分が何かを間違っていることの方が圧倒的に多い。

その間違っている部分を修正すべく
「デバッグ」という作業を行うわけだけど
これがえてしてうまくいかない。
どこかが間違っているはずなのに、それがどこかがわからない。

こういうとき「別の目」で見ると一発で解決することがありますね。
要するに他の人に見てもらうの。

見つけてもらったら実はものすごく簡単な問題で、
何でそんなことに気づかなかったのか不思議でしょうがない
ということって多くないですか。

これは彼我の能力差の問題じゃなくて、
立場が逆になることもしばしば。
次回、その相手が悩んでることを見せてもらったら
5秒で気づくこともあるかもしれない。

さてこういうときには
先ほどの「別の目」という表現を使うようにしている。
「かわりに見る」とか「チェックする」んじゃなくて
「別の目で見る」という言い方。

みんながみんなそうじゃないかもしれないし
それを表に出す人はあまりいないかもしれないけど、
やっぱり自分が書いたコードについては
何か自尊心のようなものが邪魔して人に頼めないとか
逆にそのあたりを慮って「お手伝いしましょうか」と言いづらいとか
そういうことってあるんじゃないだろうか。

そこで「別の目」ですよ。
「ちょっとつまってるから、別の目で見てくれない?」とか
「よかったら、別の目で見てみましょうか」とかいう言い方をすると
そこに知識や能力の問題は介在せず
単に「別である」という事実があるだけ。

この表現を使うと
頼む方も申し出る方もかなり気楽になって
結果として物事がスムーズに進むと思ってるんですけど、
この件を別の目で見たらどんなふうに映りますか。

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